マカッサルは雨季の激しい雨の元旦となりました。
昨年もたくさんの方々と出会い、様々なことを教えられ、勇気づけられました。自分は一人ではない。たくさんの無数の人々によって存在しているのだ、と感じました。人は、善意を受け、善意を返し、また善意を受ける、善意を返す、その繰り返しによって生きていく・・・。マカッサルの人々から学んだ大事なことの一つです。そんな人生をこれから歩んでいきたい、と思いました。
そして、これからの自分の人生の旅への警句として、敬愛する宮本常一氏の「民俗学の旅」の最後部に書かれた、大好きな一節を書き留めておきます。
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私は長いあいだ歩きつづけてきた。そして多くの人にあい、多くのものを見てきた。それがまだ続いているのであるが、その長い道程の中で考えつづけた一つは、いったい進歩というのは何であろうか、発展というのは何であろうかということだった。すべてが進歩しているのであろうか。停滞し、退歩し、同時に失われてゆきつつあるものも多いのではないかと思う。失われるものがすべて不要であり、時代おくれのものであっただろうか。進歩に対する迷信が、退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、時にはそれが人間だけでなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある。
進歩のかげに退歩しつつあるものをも見定めてゆくことこそ、今われわれに課せられているもっとも重要な課題ではないかと思う。少なくとも人間一人一人の身のまわりのことについての処理の能力は過去にくらべて著しく劣っているように思う。物を見る眼すらがにぶっているように思うことが多い。
多くの人がいま忘れ去ろうとしていることをもう一度掘りおこしてみたいのは、あるいはその中に重要な価値や意味が含まれておりはしないかと思うからである。しかもなお古いことを持ちこたえているのは主流を闊歩している人たちではなく、片隅で押しながされながら生活を守っている人たちに多い。
大事なことを見失ったために、取りかえしのつかなくなることも多い。猿の調教を見ていて、今日の人間の教育にすら、何かが失われているように思えることがある。人間は人間であるとともに動物であるのだということを考えさせられた。
これからさきも人間は長い道を歩いてゆかなければならないが、何が進歩であるのかということへの反省はたえずなされなければならないのではないかと思っている。
(宮本常一「民俗学への旅」、講談社学術文庫、234-235ページより)
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今年もよろしくお願いします
はじめまして。インドネシア人の友人たちから松井さんのお話を何度か聞いて、時々覗かせていただいてます。
インドネシアの人たちは出会いを大切にする人たちですよね。松井さんのお家でもそんな出会いがたくさんあるとお聞きしました。私は留学のためインドネシアを離れてしまいましたが、今年もインドネシアと松井さんに素敵な事がありますように。
私も、マカッサルにいたからこそ可能だった出会いがたくさんあり、またここで、様々な人々の出会いを作り出してきたような気がします。我が家がそんな新しいものやことを生み出すための交差点であったらいいなと思っています。
効率性を追求するあまり、一見無駄に見えても、世の中を成り立たせている重要なものまで、知らず知らずのうちに捨ててしまっているのではないか、見なくなってしまっているのではないか。中学時代の先生からいただいた「無駄の有駄」という言葉をいつも思い出しています。