12月4〜7日にジャヤプラへ行ってきた。そこの大学で特別講義をするためだった。「分離独立という言葉を安易に放つことによって、自分の足元を見なくなり、地道な地域開発努力を怠ってしまっている」などと辛口の意見も授業で披露してしまった。自分たちの歴史はヨソ者によって蹂躙され、何も残っていない、という彼ら。「ならば、今日の今この時から1日ずつ記録を残し、10年、20年と積み重ねて、自分たち自身の歴史を作っていこうではないか」とも呼びかけてしまった。
パプアの人々の根っ子を生やし、それを育てていくことが、次の、そしてそのさらに次の世代の将来のために必要だということを強調したが、被害者意識に彩られ、手っ取り早く、ヨソ者から獲れるものを獲る、という姿勢を地道な活動へ変化させていくのは、容易ではないと痛感した。
ジャヤプラ中心街をテレビ塔のある丘から眺める
そんな講義の合間に、パプア・ニューギニアとの国境を見に行ってきた。ジャヤプラの手前のアベプラから車で約1時間半。想像以上に舗装がよく、快適なドライブだった。
アベプラからまず、ヨス・スダルソ湾の天橋立を思わせるような海の中道を左手に見ながら進んでいく。センタニ湖も含めて、ジャヤプラ周辺の景色はなかなかの美しさである。
途中にはブトン人集落、スラヤール人集落など、移住者の集落が続き、高床式の家屋を眺めていると、南スラウェシへ戻ってきたかのような錯覚さえ受ける。もちろん、ジャワ人の移住者も多い。水田が開かれ、トウモロコシ畑が広がる。
よく舗装された道路を快適に走って、国境の前のパサールに着いた。休日には、大勢の人々がジャヤプラからここへ買い出しに出かけてくると言う。この日は、もう閉店していた。別の一角には、新たなパサールが建設中であった。パサールの前では、若者たちがスパッ・タクローに興じていた。
パサールのすぐ先に国境はあった。午後4時半過ぎ、国境管理事務所で「国境を見たいのだけれども」というと、「4時で国境は閉まったから」と言われるが、係員のおじさんが案内してくれる。デジカメはいいが、ビデオはダメと言われる。
国境管理事務所。英語とインドネシア語で書かれた注意書きの看板がある。
国境に着いた。門の向こう側はパプア・ニューギニア。
国境は実にのんびりした雰囲気で、緊張のかけらもない。ちょうど、携帯電話の中継アンテナが壊れているとのことで、携帯のシグナルはなかったが、シグナルがあれば、国境の向こう側の知人と携帯で連絡が取れる。パプア・ニューギニア側にも、インドネシア側にも、検疫のための洗車場があった。もうちょっとで、自動車で国境を超えられるようになるという。
国境も、アベプラから国境に至る道すがらも、危険を感じるようなことは全くなかった。もちろん、道の途中の丘の上には、軍の監視小屋があったが、尋問を受けることはなかった。国境まで案内してくれた係員のおじさんは、私が差し出したタバコ代を頑として受け取らなかった。アンボン出身のこの係員のおじさんを、まぶしげに眺めてしまった。
こうして、長年の夢だったパプア・ニューギニアとの国境見学も無事に終えることができた。国境の先のパプア・ニューギニアのヴァニモという町には、かつて日本に研修に来た知人がいる。いずれ、その知人を訪ねるために、この国境を越えてみたいと思った。
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仲良くできるといいですね
とくに若い人が