グローバル化で、日本のいわゆる「うまい米」が海外で作られ、日本市場へ入ろうとしている。一方で、米価の下落と集落営農による規模拡大化の農政により、米作農家の生産意欲が大きく低下しているだけでなく、主要先進国では最低の食料自給率がさらに低下する可能性が高まっている。
生産者がおいしくて安全な米を求める消費者のことをどれだけ思って生産してきたのか。消費者が米をつくる生産者の先祖代々の苦労と環境保全への努力をどれほど思って米を消費してきたのか。「ボク、作る人」「ワタシ、食べる人」の両者の間に、大きな距りがあったのではないか。
東京という都会の真ん中のビルの机上で、米作農家と交流した経験もなく、忙しいから食事はとにかく何でも安く早く食べられさえすればよい、という態度の人々が、政策立案を進めている現実。
これは何も、日本だけの話ではない。本来は農業国であるはずのインドネシアでも同様の構図がある。輸入農産物は、地方のパサールにまでどんどん入ってきている。農村へ行ったことすらないジャカルタの官僚たちは、輸入商品で溢れるショッピング・モールでの買物を楽しんでいるのである。
しかも、インドネシアでは、こだわりをさほど持たずに、とにかく生産している生産者が多い分だけ、グローバル化の影響が急速に現われてくることだろう。そんなインドネシアでも、良質の米を東南アジア市場(ひいては日本市場)へ輸出できないか、と考えている人々はいるのだ。
生産者と消費者が一緒になって、自分たちと次の世代の食の未来を考える取り組みを始める以外に、現状を改善していける方法はないだろう。それは、食の基本をローカルへ戻す取り組みなのではないか。本当の意味での、当たり前の「地産地消」を実現していくことなのではないか。
インドネシアの食の未来を考えるとき、その希望は、行政の手が及び難い遠隔の村々にあるような気がする。食の未来だけではなく、地域アイデンティティや文化・伝統といったローカル性の継続、という意味からも、都市から遠く離れた村々にこそ希望があるのではないか、と思えてくる。
ローカルを切り捨てるアプローチは、国家や地域の根本を失わせることになる。足元にもっと注意を向け、現実と真摯に向き合うべきではないだろうか。
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