インドネシアは今、受験シーズンが終わるところである。高校受験が終わり、昨日、国立大学の入学試験が終わった。
私の運転手の息子が高校を受験して、不合格になった。成績優秀で、運転手の自慢の息子である。10点満点で平均8.9点という成績なので、運転手は自信を持って入れそうないい高校を受けさせた。しかし、合格者発表のなかに息子の番号がない。落ち着かない運転手。事故を起こされてもいやなので、彼の希望にしたがって、いったん、家に帰らせた。そして、戻ってきた彼からいろいろな話を聞いた。
彼はその高校の関係者からいろいろ話を聞いてきた。今回の受験生の合格者の成績は平均7点台。運転手の息子は平均8.9点なので、楽々合格のはず。ところが、合格者には様々な「枠」があらかじめ用意されている。その多くは、政府高官などの子弟のための枠で、成績の如何に関わらず、枠に収まる。そして、この枠があるので、コネを持たない通常の受験生は熾烈な競争になる。この枠は、政府高官などが高校の校長に電話1本入れるだけで、OKのようだ。
受験中、運転手の息子の両脇の受験生はカンニング・ペーパーを持ち込んでいた。問題のヒントや答えが書いてある。運転手の息子が「僕にも見せて」と求めたが、「お前はダメ」と拒まれたという。もちろん、試験監督はいる。教師以外の独立の試験監督も導入されたそうだ。ところがこの試験監督、実際には特定の受験生があんまり惨めな点数を取らずにつつがなく「枠」に収まるように、と監督しているそうだ。
マカッサル市は義務教育費無料化を政策に掲げている。しかし、実際には、無料化されている学校とそうでない学校が存在する。どうしてか。無料化されている学校には、実は、金持ちのスポンサーがついているようなのだ。金持ちのスポンサーがいない地域では、生活の苦しい人々がなけなしの金を学校に払っている。
入学試験や試験が公正に行われない。成績がよくても、上層階級にコネがなければ、学校に入れない。たまたま地域に金持ちがいないと、教育費をせっせと払わなければならない。校長も教師も給料が低いことを理由に上層階級におもねる。これが、インドネシアの学校教育の現場の実態だ、と運転手は怒りを込めて私に話す。
インドネシアがイメージを回復できない諸悪の根源は、もしかしたら、ここにあるのではないか。階層意識の再生産はここで改めて認識される。「真面目に努力しても報われない」という諦めや「ずるい奴が得をする」という感覚は、学校教育で埋め込まれる。そして、みんながみんなではないが、不真面目でずるい卒業生たちが社会に出ていって、インドネシアを動かしていくのである。
そんな彼らに人材育成と称して研修・訓練をしたり、グッド・ガバナンスを講義したり、住民サービスの向上といっても、どこに他者に対する思いやりや関心が表れるというのだろうか。汚職体質はこの現在の学校教育の現状から形成されていくのだ。
インドネシアの教育を抜本的に変えなければ、インドネシアはよくならない。そんな気がする。イニンナワ・コミュニティの仲間のなかには、学校外教育の重要性を主張し、高校生を現場に連れ出してフィールドから学ぶプログラムを実施しているグループがある。彼らの活動はすずめの涙みたいなものだが、参加した高校生が学校に戻れば、またあの世界なのである・・・。
インドネシアの学校教育や社会への絶望感が、オルターナティブ探しに一部の若者たちをいざなうことだろう。それはイスラームであったり、左翼運動であったり。でも、欧米がテロの温床とみなして警戒しているイスラーム法適用運動がなかなか盛り上がらないのは、それを提唱している勢力の最大の目的が政治的権力の奪取にあるからである。反社会的なイスラーム運動はそこから起こるのではないとみる。
イニンナワ・コミュニティに出入りしている若者や高校生らと話しているときに感じる「世の中を変えたい」という思い。既得権益者はそれに対して宗教フレーバーを巧みに活用しながら、現状を「運命」「仕方ないこと」として受け入れさせるように働きかける。私は、彼らがあきらめず、しかししなやかに、これからの社会での困難な「闘い」に挑み、途中で爆発してすべてをなくしてしまったりしないよう、勝手に祈っている。
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