ここは、金の繭をつくるクリキュラなどの野蚕を飼育するとともに、日本の支援で2003年から実のなる木を植林する事業を進めている。山の斜面には、カシューナッツやピーナッツが植えられていた。実はここは2004年にも訪れたことがあったのだが、そのときにはなかった畑が一面に広がっていた。
下の写真はピーナッツの花である。黄色の可愛い花が咲いていた。
カシューナッツは、殻から油をとるのだという。この油は航空機燃料にも代用できるというのだが、専門外なので詳しいことは分からない。カシューナッツの殻を剥くカチップという道具が使われていたが、1996年に南スラウェシ州シドラップで使ってたもののほうが、1回ガチャンとやるとそのまま殻が剥ける、より進んだものだったような気がした。
次にむかったのは、素焼きの壺などで有名なカソガン。震災直後は商品の素焼きの大半が壊れたということだったが、今回訪問した限りでは、少しずつ客足が戻り始めている様子だった。
ある素焼きの製造販売店では、支援はとくになく、牛を3頭売って資金を作り、店を建て直したという。震災3ヵ月後から製造を再開した。
別のところでは、ワークショップで職人が壺を作っていた。西ジャワ州プレレット出身の彼は、震災後2カ月は郷里に戻っていたが、再び戻ってきて、一日に約14個の壺を作るという。
カソガンでも店によって明暗があるようだ。震災後に店舗を拡大したこの店では、デンマークやマレーシアなどへ送る製品が梱包されていた。
最後に、友人の友人の家族が住むバントゥール県のとある村へ行った。この村では、震災による死者は1名に留まったが、多くの家が崩壊した。いまだに復旧できない家、震災後放置されてしまった家、などがあちこちに見られる。
震災後、ガジャマダ大学が家屋の状況を検査し、「住める家」「住むのに不適な家」などを指摘して、その評価を家ごとに貼った。しかし、これによって、逆に十分な支援を得られないケースが出た。大学がこの評価にどのような責任を持ったか、行政との連携があったかどうか、は不明である。
村人はあの震災を決して忘れてはいない。しかし、その経験をこれから後世にどのように伝えていくかまで考える余裕はない様子だった。
私自身は、震災の体験を共有し、後世に伝えていくための「場」が必要だと感じた。そこは何かあった場合の避難所になってもいいし、村人共有の果物や野菜や花を植えた畑のようなものでもいいし、村人が集まってお茶を飲みながら語り合えるような場所でもいいだろう。そこには、私のようなヨソ者がやってきて、彼らの体験を学ぶ場となってもよい。そんな場が震災地のあちこちに設けられるといいのだが、と思った。
震災直後は、村人たちは懸命に助け合いながら復旧を進めたのに、政府が支援を始めた後は、それがバラバラになってしまった、という声も聞いた。住宅建設などでもすぐに様々な利害が入り込んでくる。支援を受けた者に対する受けられなかった者のやっかみや嫉妬が助け合いを妨げていく。援助プロジェクトの現場ではよく見られる光景だ。もう一度、コミュニティを再生させていける「場」の展開をもう少し考えてみたいものだと思った。
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