10月22日、警察と住民が衝突、住民1人が射殺された。衝突は連日続き、24日には住民が警察の宿舎を襲撃し、25日には別の警察の宿舎に火を放った。こうした騒動のため、レバランの前夜に町を練り歩くタクビランがポソでは中止された。
22日の事件では、住民によると、モスクで礼拝中の住民を警察が襲ってきたとのこと。一方、警察は、犯罪者を探すためにパトロールしていたところを住民が襲撃してきた、と主張。
しかし、話は思わぬ方向へ展開していく。
警察が探していたのはテロリストに連なる危険人物で、それを住民がかくまっているとの情報があったようだ。警察は「先に襲ってきたのは住民」として正当防衛を主張、カラ副大統領をはじめ中央政府・国家警察も地元警察の主張を踏襲した。住民側の主張は黙殺され、悪者とされた。
この頃には、ポソのキリスト教会への襲撃も起こっている。話は、「警察と住民との対立」から「宗教間抗争」あるいは「それを煽る第三者の存在」という、いつものポソ騒動のパターンへ転換していった。
挙句には、29日に、カラ副大統領が中スラウェシ州の州都パルにポソの各宗教指導者を集め、ジャカルタから治安担当閣僚や国家警察長官を呼び、ポソ問題解決のための会合をもった。パルに集まったイスラム関係者の中には、あのラスカル・ジハッドを率いてマルクで暴れたジャファル・ウマル・タリブが含まれていた(なぜかKompas紙ではそのことに触れていない)。
そして、みんなで仲良く、ポソ騒動の解決に力をあわせていくことで合意。ポソでの警察の「襲撃」を強く非難していたアドゥナン・アルサル師(ポソの有力なイスラム指導者)もそれを飲む形になった。
この流れを見ながら、ふっと、9年前のことを思い出した。そう、あれはマカッサルがまだウジュンパンダンという名だった1997年9月16日。激しい反華人暴動が3日間続いた。
華人(+トラジャ人の)青年がムスリムの少女を通り魔的に殺害したのがきっかけだった。殺人犯の青年は周辺の住民にボコボコにされた。それを制止した警察が瀕死の青年を病院に運ぶ。住民は青年が死んだかどうか気が気でない。警察から「死んだ」という情報が流れて騒ぎはいったん収まる。しかし、それが嘘だとわかって住民が怒りだす。怒りは警察に向けられたのだろう。その頃、「華人青年がムスリム少女を殺した」というビラや噂が市中へ急速に広まった。
人々は華人商店や華人の資産を見つけては投石や放火をし続けた。その結果、警察は住民の怒りの対象にはならずに済んだ。カラ副大統領は当時南スラウェシ州商工会議所の会頭。そのとき彼は「暴動の背景は華人と非華人との社会経済的格差」といち早く断じた。
ポソの話に戻ろう。警察と住民の対立は、一連のポソ騒動の文脈のなかに置かれ、警察も住民も悪くなく、第三者が扇動してそうした状況を作り出した、というような話になってしまった。射殺された住民とその家族はそれで納得するだろうか。遺族は国家人権委員会に抗告した。
私の友人の話。おじさんと従兄弟がバイクに乗っていて、おじさんのバイクが何かの調子にこけて、後ろに乗っていた従兄弟が路上に落ちた。そこに警察の車が走ってきて従兄弟を撥ねた。友人は「警察が悪い」といったが、警察はバイクをこけさせたおじさんを犯人に認定、周辺住民に口裏を合わさせて、おじさんを逮捕した。友人はその不条理を胸にしまいながら、「自分が政治家になって世の中を変えたい」と強く思い始めた。
警察は絶対に間違わない。政府は絶対に正しい。こうした無謬論は、いまだにどこでも強いのだろう。体制や組織を守るためには、善意であれ悪意であれ、こうした一種の「すり替え」が頻繁に行われ、時が経つにつれてそれが全く見え難くなっていくのだ。
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4〜5年前、私のかみさんの友人が、ポソへセールスに行ったままいまだに帰ってこないということです。警察の調査で、腕時計と上着だけが出てきたそうです。ちなみに、かみさんの友人はキリスト教徒でした。キリスト教徒の友人達は絶対にポソには行かない、と異常な恐怖心を抱いています。