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2007年02月25日
マカッサル学第2回
2月23日に「マカッサル学」の第2回を開催した。この内容については、あいあいネットの以下のサイトを参照して欲しい。
マカッサル学第2回(2/23)
一つ気づいたことだが、私が以前住んでいたJl. Daeng Tompoという通りの名前が、昭和17年時点のマカッサル市内の地図(スラウェシ島情報マガジンから借用。作者不詳)にもDaeng Tompo St.として書かれている。
マカッサル市内のほとんどの通りの名前は、かつてはオランダ名だったのが、日本軍占領期に一部が日本名に変えられ、独立後に改名された。独立後も、とくに1970年代初めのPatompo市長の時代に、地域ごとに動物の名前、鳥の名前、色の名前、などに統一して変えたことで、以前からのそこの土地やコミュニティに由来する通りの名前が消えていったという。その後も、頻繁に通りの名前は変えられて、現在に至っている。
しかし、先のJl. Daeng Tompoはおそらく、オランダ植民地時代から今日に至るまで、名前が変わっていない稀有な通りである可能性が高い。かつて家族と一緒に5年近く住み、とくに1997年9月の反華人暴動のときには近所総出で投石や放火から家を守りきった、あの通りがますますいとおしくなってきた。
マカッサル学第2回(2/23)
一つ気づいたことだが、私が以前住んでいたJl. Daeng Tompoという通りの名前が、昭和17年時点のマカッサル市内の地図(スラウェシ島情報マガジンから借用。作者不詳)にもDaeng Tompo St.として書かれている。
マカッサル市内のほとんどの通りの名前は、かつてはオランダ名だったのが、日本軍占領期に一部が日本名に変えられ、独立後に改名された。独立後も、とくに1970年代初めのPatompo市長の時代に、地域ごとに動物の名前、鳥の名前、色の名前、などに統一して変えたことで、以前からのそこの土地やコミュニティに由来する通りの名前が消えていったという。その後も、頻繁に通りの名前は変えられて、現在に至っている。
しかし、先のJl. Daeng Tompoはおそらく、オランダ植民地時代から今日に至るまで、名前が変わっていない稀有な通りである可能性が高い。かつて家族と一緒に5年近く住み、とくに1997年9月の反華人暴動のときには近所総出で投石や放火から家を守りきった、あの通りがますますいとおしくなってきた。