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2005年10月30日
ハサヌディン大学に日本文学科
マカッサルの国立ハサヌディン大学に日本文学科が開設されました。日本文学科としては、インドネシア大学に続く2つ目の開講とのことです。開設までに15年待たなければならなかったそうです。
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大分道中番外編
今回は、移動でJR九州のソニックによく乗りました。なかなか快適でしたが、普通列車では行けないような、あるいは普通列車の運転間隔が3時間も空いているような状態で、通学の高校生までもがソニックを使わざるを得ない、という状態でした。車内はとても明るいです。
続いては、由布院・湯の岳庵で食べたドジョウ鍋。東京の柳川のよりも大きいドジョウで、とてもおいしかったです。
最後は、安心院の宮田さんのところで朝食の秋刀魚と一緒に出てきたカボスです。このカボス、種なしで皮が薄くて小さいのです。スダチかと思ったぐらいです。自家製・自家用とのこと。
続いては、由布院・湯の岳庵で食べたドジョウ鍋。東京の柳川のよりも大きいドジョウで、とてもおいしかったです。
最後は、安心院の宮田さんのところで朝食の秋刀魚と一緒に出てきたカボスです。このカボス、種なしで皮が薄くて小さいのです。スダチかと思ったぐらいです。自家製・自家用とのこと。
昭和の町、豊後高田
27日、「箭山紬」の後、豊後高田に「昭和の町」を見に行きました。商工会議所が「最低の商店街」とかつて酷評した豊後高田の商店街に、今では、ピーク時で1日40台もの大型バスが押し寄せます。
寂れた町を活性化させるため、市は1992年に文化センターやスポーツセンターの建設を含めた活性化プランを外部業者に委託して作成します。そこで「最低の商店街」は別の場所へ移転して再編される予定でした。このプランはいわば通常の街づくりプランといえそうですが、住民の反応は「非現実的」と冷淡で、事実上お蔵入りとなりました。
こうなると自分たちでやるしかない。5年間かけて「街の個性さがし」を徹底して行うことになりました。そして、商店街が元気だった昭和30年代をモデルとした個性を生かす方向性が浮かび上がります。折りしも、時代は昭和30年代が日本を覆い始めた頃で、「昭和の町」というテーマが浮かび上がりました。
しかし、相手は生活がかかった商店街で、アソビは許されません。各商店で以前から使っていた器具などの「一店一宝」、店の有力商品である「一店一品」などを含め、また店舗を昭和30年代風に改装するなど、市内のいくつかの通りをモデルとして昭和の町が作られていきました。専門のガイドさんが今日も観光客を案内しています。
商業と観光の一体的発展、観光と定住の両立がこの「昭和の町」の今後の持続性にとっての鍵です。周辺に大型スーパーモールも出店し、地元の人は商店街の外で買い物し、よそからの観光客が商店街へくる、という構造が見られます。まだまだこれから、というのが商工会議所の結論でした。これから「昭和の町」がどう「進化」していくのか、楽しみであると同時に、定住者の視点に立った地に足の着いた展開を期待したいところです。
寂れた町を活性化させるため、市は1992年に文化センターやスポーツセンターの建設を含めた活性化プランを外部業者に委託して作成します。そこで「最低の商店街」は別の場所へ移転して再編される予定でした。このプランはいわば通常の街づくりプランといえそうですが、住民の反応は「非現実的」と冷淡で、事実上お蔵入りとなりました。
こうなると自分たちでやるしかない。5年間かけて「街の個性さがし」を徹底して行うことになりました。そして、商店街が元気だった昭和30年代をモデルとした個性を生かす方向性が浮かび上がります。折りしも、時代は昭和30年代が日本を覆い始めた頃で、「昭和の町」というテーマが浮かび上がりました。
しかし、相手は生活がかかった商店街で、アソビは許されません。各商店で以前から使っていた器具などの「一店一宝」、店の有力商品である「一店一品」などを含め、また店舗を昭和30年代風に改装するなど、市内のいくつかの通りをモデルとして昭和の町が作られていきました。専門のガイドさんが今日も観光客を案内しています。
商業と観光の一体的発展、観光と定住の両立がこの「昭和の町」の今後の持続性にとっての鍵です。周辺に大型スーパーモールも出店し、地元の人は商店街の外で買い物し、よそからの観光客が商店街へくる、という構造が見られます。まだまだこれから、というのが商工会議所の結論でした。これから「昭和の町」がどう「進化」していくのか、楽しみであると同時に、定住者の視点に立った地に足の着いた展開を期待したいところです。
箭山紬
27日はまず、中津市に合併された旧三光村の箭山(ややま)紬を見るため、それを一人で紡いでいる松田和子さんのお宅を訪問しました。
松田和子さん。写真の服もご自分で織られたものです。
松田さんが織った「箭山紬」の作品
松田さんのお話によると、以前は周辺のどこの家でも蚕を飼い、喪服などは自分の家で織っていたそうです。この蚕のいいものは外に出し、余った二級品を糸にして紬に仕立てた、しかしそれは白地の布で、色付けや染めは京都でしていた。紬を一人で織ってきたおばあさんが亡くなり、そこに8年間も出入りして見よう見まねで覚えた松田さんが今から30年ぐらい前に紬を織り始め、当時流行っていた草木染などを取り入れました。
ちょうど一村一品運動が始まった頃で、三光村でも一品を探す必要が生じ、中津の文化人の方がこの松田さんの紬を「箭山紬」と名づけ、三光村の一村一品になった、とのことでした。名づけられたものの、行政からはとくに支援はなく、松田さんは淡々と一人で紬を織ってきたのでした。一村一品運動の現場のもう一つの面を見た思いがしました。
地道にこつこつと紬を織ってきた松田さんのところへは、小学生がそれを見に遊びに来るそうですが、6年生になると「部活で忙しい」といって来なくなるのが残念そうでした。中津の方が織りを学びに来るそうです。
かつてシンガポールにも行ったことがある松田さんは、東南アジアにとてもよい印象を持っておられ、東南アジアの紬や織物にとても興味をもっていらっしゃいました。ご自宅でいただいた甘くておいしい甘柿のお返しに、またインドネシアの織物好きの友人を松田さんのところへ連れて行きたいと思いました。
松田和子さん。写真の服もご自分で織られたものです。
松田さんが織った「箭山紬」の作品
松田さんのお話によると、以前は周辺のどこの家でも蚕を飼い、喪服などは自分の家で織っていたそうです。この蚕のいいものは外に出し、余った二級品を糸にして紬に仕立てた、しかしそれは白地の布で、色付けや染めは京都でしていた。紬を一人で織ってきたおばあさんが亡くなり、そこに8年間も出入りして見よう見まねで覚えた松田さんが今から30年ぐらい前に紬を織り始め、当時流行っていた草木染などを取り入れました。
ちょうど一村一品運動が始まった頃で、三光村でも一品を探す必要が生じ、中津の文化人の方がこの松田さんの紬を「箭山紬」と名づけ、三光村の一村一品になった、とのことでした。名づけられたものの、行政からはとくに支援はなく、松田さんは淡々と一人で紬を織ってきたのでした。一村一品運動の現場のもう一つの面を見た思いがしました。
地道にこつこつと紬を織ってきた松田さんのところへは、小学生がそれを見に遊びに来るそうですが、6年生になると「部活で忙しい」といって来なくなるのが残念そうでした。中津の方が織りを学びに来るそうです。
かつてシンガポールにも行ったことがある松田さんは、東南アジアにとてもよい印象を持っておられ、東南アジアの紬や織物にとても興味をもっていらっしゃいました。ご自宅でいただいた甘くておいしい甘柿のお返しに、またインドネシアの織物好きの友人を松田さんのところへ連れて行きたいと思いました。